2007年08月19日

サンボ (格闘技)

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サンボ(露:Самбо、英:Sambo)はソビエト連邦で開発された格闘技、または旧ソビエト連邦において徒手格闘技、徒手武術をあらわす。
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Самбоは、самозащита без оружия(samozashchita bez oruzhiya、武器を持たない自己防衛の意)の略であると言われている。つまり、広義では徒手格闘技、徒手武術のことである。 また、Samboには黒人への蔑称の意があるためアメリカではSomboと表記することもある。

狭義では日本で一般に知られているスポーツ、格闘技であるスポーツサンボのことをさし、この意で使われることが最も多い。このスポーツサンボはソビエト連邦で開発された格闘技である。

旧ソビエト連邦の軍隊で採用されている徒手軍隊格闘術をコマンドサンボ(露:борьбы Самбо)と言う。日本でコマンドサンボと呼ばれるサンボは正確には英語でコンバットサンボ、ロシア語でバエヴォエサンボと言う。

また、ロシア古来の着衣徒手格闘技でニコライ・ズーエフが修得していた英語でロシアンサンボ、ロシア語でルースカエサンボと呼ばれるものもある。多彩な関節技を有している。スポーツサンボのベースにもなっている。

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2007年08月18日

カポエイラ

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カポエイラ路上の試合カポエイラ (capoeira) は、ブラジルの格闘技。カポエィラとも呼ばれる。「カポエラ」は誤った表記であるが、日本語表記は前述のいずれかが用いられる。
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相手に蹴りや攻撃を当ててしまうものは下手とされ、基本的に相手には触れず、プレッシャーをかけてゆく。そのため、格闘技とダンスの 中間に位置するものとも考えられる。

日本では梶原一騎が自書の作品で『逆立ちしながら闘う格闘技』と誤った紹介をした為に、長年誤解されてきた。実際には常に逆立ちのような体勢をとるのではなく、足を地面に付けていることの方が多い。

ラベル:カポエイラ
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少林寺拳法

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少林寺拳法(しょうりんじけんぽう)とは太平洋戦争直後の1947年(昭和22年)10月、満州から帰国した宗道臣が日本で創始した禅の精神修養と護身を旨とする拳法の流派および宗教団体。
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少林寺拳法の本来の目的は、宗教法人金剛禅総本山少林寺に伝承する霊肉一如の修行法であり、その修練をとおして、健康増進・精神修養・護身練胆の三徳を兼備し、金剛の肉体と不屈の勇気、円満な人格、思いやりと優しさを持った人々を多く育てあげて、それにより人々が平和で幸福な理想社会を実現する為の力を獲得する宗門の行であるという。つまり、人作りによる国作りの大道が本来の目的であるとされる。そうした意味で、宗教団体というより、また、武道団体というよりも、社会教育団体という言葉の方が似合う位であるとされている。

ちなみにここでの「宗門の行」とは、「人が心の迷いを去って真理を会得し、自らがよりどころと出来る自己を確立し、それによって社会の平和と幸福に奉仕、貢献する為に行じる」という意味だという。(財団法人少林寺拳法連盟著・図解コーチ・スポーツシリーズ「少林寺拳法」(成美堂出版)より抜粋。原文ママ)

明治44年(1911年)生まれの宗道臣は、昭和初期に「日本民族発展の捨石になろう」という理由で、中国大陸に渡り、陸軍の特務工作員の仕事をしながら、仕事に必要な教育を受ける為に道教の十方叢林(宗教専門学校)に連れて行かれて、陳良という中国人の老師に身柄を預けられて、そのまま弟子になった。陳良老師は、1900年前後に興った義和団事件の生き残りの中国拳法の達人で、その老師に少しずつ拳法の技を学んでいったという。その渦中に、ある任務の為に中国東北地区(当時の満州)を大旅行する事になり、その際に義和団事件の生き残りの拳法家達に拳法の技術を少しずつ学んでいったという。その中の一人が、陳良老師の師匠であり、北少林義和門拳二十代師父の文太宗老師で、文老師の下で修行を積んだ宗道臣は、その技の全てを習得、昭和11年(1936年)祖師達磨大師のゆかりの地・嵩山少林寺で義和門拳の法脈継承の儀式を行った。

そして、終戦の年の昭和20年(1945年)8月9日に当時の満州で、ソ連軍の攻撃に遭遇、それからの約一年間をソ連軍軍政下の満州にて生活する事になる。その生活の中で法律や政治のあり方は、その立場に立つ人の人格や考え方によって大きな差が出る事を発見し、「人、人、人、全ては人の質にある」という事を悟ったという。もし、生きて日本に帰る事が出来れば、私学校を開いて、青少年を集め、道を説いて、勇気と自信と行動力と正義感と慈悲心に満ち溢れた、強くて、優しくて、正しい若者を多く育てたいと念願するようになったという。

しかし、実際に帰国してみると、祖国は道義も秩序も無い弱肉強食の修羅場のような状況で、特に次代を担う青少年の荒廃は目を覆うばかりだったという。「これではいけない、これからの半生を骨のある青少年の育成に捧げよう」と決心し、四国の香川県・多度津町にて主として釈尊の正統仏教の教えを説きながら、人作りの重要性を訴えたが、中々人々はついてきてくれなかった。肝心の若者達も同じで、中々長続きはしなかったという。そんな状態で思い悩んでいた時に、歴史上の人物で、中国・河南省・嵩山少林寺に座禅行と易筋行を伝えたとされる菩提達磨の夢を見て、そこからはっと閃くものがあった。「そうか、はるばるインドから中国に正統仏教を伝える為に渡った達磨が、この行を弟子達に学ばせたその故事に倣って、今こそその達磨の行動を日本に再現させよう」と思い立ち、その為に人集めの手段として、餌として、少林寺拳法を開創する事を思い立ったという。これを長期間に渡って教えながら、道を説けば、必ず次代を担う青少年に不屈の精神力と、金剛の肉体とを合わせ持ち、その上で自信と勇気と行動力を与える事が出来ると確信したという。

こうして、釈尊の自己確立・自他共楽の教えを「力愛不二・拳禅一如」の法門として編成し、中国で学んだ各種の拳法を再編整理して、理論の裏付けを行い、さらには戦中・戦後を通しての貴重な白兵戦の体験と創案を加えて、宗門の行としての形を整えた。こうして少林寺拳法が開創されて、その拳法の修行の合間、合間に口が酸っぱくなるほど、釈尊の教えを中心に祖国愛や民族愛等の人生観・世界観を当時の青少年達に説き続けたという。そして、昭和55年(1980年)に宗道臣が心不全で69歳で死去するまで、この金剛禅運動と名付けられた運動は続けられて、現在は娘の宗由貴氏に引き継がれている。

実際に宗道臣自身が、後年に、単に武道団体を創始したかったのではなく、「敗戦した後の日本の若者の堕落ぶりは目を覆わんばかりであった。荒廃した日本民族の自立を再度うながすべく、一人でも気骨ある若者を育てる教育の場を創造したかった」と回顧している。

法衣と呼ばれる仏門の服装をまとい、おもに二人一組で行われる演武は、飛燕と呼ばれる突きと蹴りの攻防、そして鋭い気合の応酬、床にたたきつけるがごとくの投げ技と関節技、そして圧法と呼ばれる技法で行われる。静と動を同時に行う禅の拳法と称された。創始当時には他流派武道から多く転籍があり当時としては魅力ある技術体系であったと想像される。一方、少林寺拳法は戦後発祥であるが、日本九大武道(日本武道館認定)の一つとなった。また金剛禅と呼ばれる思想は、創始60年を経過した今も、剛柔一体の技法と同様に多くの人々の共感を呼び、さらに会員数は増え続けているとされている。

同時に別派を認めない世界で唯一の宗教団体及び武道団体として結束力が強い。宗が戦前に中国の臨済宗の総本山である嵩山少林寺を訪れた際に、彼が修業中であった義和門の法門継承式を少林寺にて行い、またその際に白衣殿北壁の羅漢練拳図に描かれた相対演練を見て深く感銘を受けた意味から後日「少林寺拳法」と流派名をつけた経緯がある。したがって技法的には少林拳、少林寺の歴史とは直接は関係が無い。宗道臣が中国滞在時に指導を受けた各種中国拳法を取り入れ、また幼少時より祖父宗重遠から教わった不遷流ほか日本の古武道を混合させて試行錯誤のうえ作り上げた(出典:「秘伝少林寺拳法(光文社)」)日本独自の武術であり、宗派である。終戦直後の香川県多度津町で宗道臣は「これはシナの武術じゃ。喧嘩の仕方を教えてやる」と言って少林寺拳法を広めていった。

嵩山少林寺には昭和50年代に宗道臣の記念碑が建てられており、日本から多数表敬訪問している。同寺の公式ホームページに「日本武士宗道臣」の記述がある、リーリンチェイ主演映画「少林寺」に少林寺拳法の山崎博通氏(現・禅林学園校長)が出演している、リーリンチェイ氏が日本の香川県少林寺拳法本部を訪問している、など交流面は多く、嵩山少林寺と日本少林寺拳法連盟はお互いを認め合っている。ちなみに嵩山少林寺の武術は単に少林拳と呼ばれていることが多く「拳法」と言う呼称は中国においてはあまり使われない。
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2007年08月16日

中国武術

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中国武術(ちゅうごくぶじゅつ)とは、中国に起源を持つ武術の総称。「中国武術」は中華人民共和国では単に武術(ウーシュー、wǔshù)、中華民国(台湾)では國術(グォーシュー、guóshù)(日本でこれから転じて国術)、中国広東省など両広地方では功夫 とも呼ばれる。また、中国で単に「武術」というと世界中の武術、武道、格闘技全般を指すこともあるので留意されたい。
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中国拳法とも日本ではよく呼ばれるが、中国での名称である武術という言葉が示すのは徒手技術である拳法のみではなく、火器を除く武器術も含まれる。武器は中国においては器械、または兵器と呼ばれ、刀や剣に代表される短器械、槍や棍に代表される長器械などがある。中国の武術の門派の数は有名なものだけで400とも600とも言われるが、徒手拳術と器械を備えている門派が多い。

現在、「武術」(ウーシュー、日本名「武術太極拳」)の競技名で点数制の套路競技(表演競技)や散手(散打)競技(徒手の組手競技)が中国国内だけでなく国際的に行われている。(この国際競技スポーツとしての「武術(武術太極拳)」は、節「伝統拳と制定拳」や武術太極拳を参照)

中国では武術の目的は「看」、「健身」、「実用」、すなわち見て美しい演武を行うこと、体を鍛えて健康になること、そして相手を殺傷できる力をつけることの3つであると考えられている。「看」の側面を強調したものは表演武術である。「健身」の側面を強調したものは太極拳である。太極拳の愛好者は世界中に大勢いるが多くの人が武術としてよりも健康法として行っている。「実用」の側面は現代では表だって行われることは無いが、伝統拳を伝える老師の多くは実用性を重視した練習方法を伝えている。いずれかが強調される場合はあるものの、この3つが揃って初めて武術と呼べるものであり、いずれかを欠いた場合には武術ではない何か、ダンス競技や健康体操、あるいはただの格闘技となってしまうという考え方もある。

ラベル:中国武術
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八卦掌

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八卦掌(はっけしょう、Baguazhang)とは、中国武術の内家拳の一つ。現在は分派により、八卦六十四掌、遊身八卦連環掌、揉身八卦遊身掌など様々な呼び方があり、「八卦掌」はそれらの総称である。名称からわかるように、動作の根本原理を周易の八卦思想で説明しているが、それらの理論は当然後世に構築されたもので、成立当初には無かったと考えた方が良い。
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成立年代は19世紀の前半(清朝後期のころ。)と言われており、創始者は紫禁城の宦官であった董海川とされる。当時、董海川自身が「八卦掌」という名称を用いていたかどうかは定かでなく、その名称自体は後世になってから定着したものと考えられる。董海川は後に紫禁城の護院の長、あるいは粛親王府の護院の長となったと伝えられているが、確かな記録はまだ見つかっていない。

八卦掌の源流を道教の修行法とする人や他の拳術とする人もいるが、実際の所はわからない。成立過程の一つに羅漢拳が挙げられることもある。八卦拳を標榜する派、特に宮宝田派がこの説にこだわっている。二代目の尹福が羅漢拳を身につけていたからだが、開祖の董海川が羅漢拳を身につけていた形跡は見られないので、これも一つの伝説にしか過ぎない。

(*ある技術が自派にのみ伝わり、他派に伝わっていないので自派が正統だとするのは武術の流派によく見られる言い方だが、その正当性を客観的に証明するのは困難である)

董一族の住処であった村に八番拳というものが伝えられており、これが八卦掌の源流ではないかと北京体育大学の康戈武教授が論文を書いている。この八番拳に道教の円を巡る修行法・禹歩が加えられ走圏となったのではないかと推測している。また八番拳の套路には八大母掌との共通性が見られるという。 かなり濃厚な説だが証明は難しい。

他門派に比べて新しいこともあり、八卦掌の技術は他門派の優れた技術を多く取り入れている節がある。八卦掌は、他の「内家拳」門派と比べて練習体系が公開されていない為か、他の門派よりも一層神秘的に見られていることが多く、また動きが優雅なので誤解が多いが、実際には極めて攻撃的である。変化に富むのが特徴で、一般的に太極拳は柔らかい、形意拳は剛直と見られており、太極拳は柔を表す皮革球、形意拳は剛を表す鉄球に喩えられ、八卦掌は鋼の糸を編んだ鉄糸球と喩えられるが如く、剛でもあり柔でもある。

形意拳一門と八卦掌一門が試合をしたとき全く勝敗がつかなかったため両者が話し合ったところ、共に同じ原理に基づく武術であると分かり、その後互いに相手の武術も修行することになったとの伝説が語られている。おそらくは程廷華が形意拳家と多くの交流をもったために生じた伝説だが、程廷華の交友関係により形意拳との交流が多くなり、歴史的にも技術的な影響を形意拳から受けている派が多くなったことは事実である。

八卦掌は名前の通り「拳」(こぶし)よりも「掌」(てのひら)を多用するのだが、掌に限定するわけでなく拳も用いられる。掌の形も、相手をつかんだり攻撃を流しやすくするために指先を大きく広げて構える形や、隠し武器(暗器)や指先で相手の急所を突くために指先をそろえて構える形など、門派により様々である。

技の数は非常に多く、一見踊りを踊っているようにも見える動作には、非常に効果的な攻撃方法が含まれる。また、技の数は多いが、その中で一つだけ「A」という技だけをピックアップして練習することもできる一方、全く違う「B」や「C」などの他のあらゆる技と組み合わせて練習することも可能であり、動作を次々と移ることもできるように作られているという特徴を持つ千変万化の拳法といわれる。多くの中国拳法がそうであるように八卦掌の身法もまたそのまま武器術(特に刀術)に応用することができる。

北京の故宮で皇帝のボディーガードをするために工夫された、特徴的な武器や暗器も多い。

はじめに基本動作である「走圏 (Zouquan)」・「八大掌(badazhang)」を練習し、その後さまざまな套路(型)や武器術を学ぶ。

套路には、老八掌、新八掌、連環掌、遊身掌、九宮八形掌、八面掌、龍形掌、六十四手などがある。(各門派により套路の内容、練習体系、名称に違いがある。)
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2007年08月14日

形意拳

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形意拳(けいいけん・Xingyiquan)は、太極拳・八卦掌などと共に内家拳に分類される中国武術の一派。
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その伝承内容は、五行拳(金行劈拳、水行鑚拳、木行崩拳、火行砲拳、土行横拳)という陰陽五行説でいう五行を表した、 五種類の単式拳を全ての母拳とし、 その応用で十二形拳(龍形拳、虎形拳、猴形拳、馬形拳、黽形拳、鶏形拳、鷂形拳、 燕形拳、蛇形拳、鳥台形拳、鷹形拳、熊形拳)とよばれる、十二種の動物の形態と意を表した象形拳を基本としている。

形意拳の代表的な套路(型)は、各派によって差異はあるが、
五行連環拳(形意連環拳)、雑式捶(十二形合一拳)、四把捶(鶏形四把拳)、 八字功(正門八字功・奇門八字功)、出入洞(出洞入洞)などがあり、 二人一組でお互いを打ち合って行う対練套路には、五花砲、五行砲、安身砲、散手砲などがある。

武器術も豊富で槍術を中心に、棍、剣、刀、暗器など使用兵器は多彩であり、 器械套路(武器の型)としては形意梅花槍、形意五行槍、形意五行刀などの套路がある。

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2007年08月13日

太極拳

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太極拳の練習風景太極拳(たいきょくけん)は中国の長い歴史の中から生まれた中国武術の一つ。
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緩やかで流れるようにゆったりとした動きが特徴であり、健康、長寿にも良いとされ、中国などでは朝の公園などで集まって練習している姿も見られる。

武術が持つ一般的な激しいイメージとは対照的に、コントロールされたゆっくりとした動きを多く含む。

国内でも、太極拳の愛好者は年々増えつつあり、自治体単位で太極拳を推進しているところもある。

例えば、福島県喜多方市では、「太極拳の街」宣言を行っており、市民単位で、毎朝、太極拳の練習が行われたり、市役所内においても、昼休みに市長を先頭に太極拳の練習が行われるなど、積極的な取組みがなされている。
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2007年08月12日

ムエタイ

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ムエタイ(英語: Muay Thai,Thai boxing、タイ語: มวยไทย)は格闘技の一種でタイの国技。
発音的にはムワイタイが正しいが、日本ではムエタイの語で定着している。

直訳するとムワイはクメール語で1を起源とし、1対1の格闘のことであるため(たとえばプラーン(レスリング)のことをムワイプーランという)「タイ式の戦い」となる。
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元々は他国の侵攻に対抗するための古式ムエタイだった。ヨーロッパに知られタイボクシング(Thai boxing、タイ式ボクシングの意)と呼ばれることが多い。

日本ではタイ式キックボクシングともいわれるケースがあるが、正しくはタイ式ボクシングである。キックボクシングはムエタイを元に日本風にアレンジしたものであり、厳密には違う競技である。(理由は後述)。両手、両肘、両脚、両膝の八箇所を用いて相手と戦う。

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2007年08月11日

合気道

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合気道(あいきどう)は、日本古来の柔術・剣術・杖術など諸武術を基に植芝盛平(1883年 - 1969年)によって創始された現代武道である。
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和歌山県田辺市の富裕な農家に生まれた植芝盛平は幼少より武術の修行に勤しみ、起倒流柔術(きとうりゅうじゅうじゅつ)・後藤派柳生心眼流柔術(やぎゅうしんがんりゅうじゅうじゅつ)を修めた後、1915年、大東流合気柔術総本部長武田惣角(1860年 - 1943年)に入門、1922年教授代理を許された。1917年宗教団体大本に入信、京都の綾部で独自の修行を続け、甥の井上鑑昭(親英体道の創始者)と共に「合気武道」の指導を行う。1927年竹下勇海軍大将らの支援を得て上京、1931年皇武館道場設立、1940年財団法人皇武会(後の財団法人 合気会)設立、1942年「合気道」の名称を用いる(盛平は初代合気道「道主」となり、没後は特に「開祖」と呼ばれることになる)。戦後、のちに二代目道主となる盛平子息・植芝吉祥丸や弟子達によって一般に普及し、知られるようになる(盛平は当初普及に消極的であったが、弟子達の熱意に動かされ、積極的に協力することになったという)。

盛平が創始した(財)合気会は二代目道主・植芝吉祥丸を経て、現在は吉祥丸の次男植芝守央が代表である三代目道主を務める。現在合気道人口の大半を占めるのが合気会の会員であり、合気道界の主流派を形成している。また盛平の門下及び合気会から独立した団体・会派が複数存在する。(財)合気会以外の組織として、望月稔の養正館武道、砂泊諴秀の合氣万生道、塩田剛三の養神館合気道、藤平光一の氣の研究会(心身統一合氣道)、富木謙治の日本合気道協会(富木流)、斉藤仁弘の岩間神信合氣修練会、清水健二の天道流合気道天道館等がある。一方、主な会派に所属しない京都の合気道武産会などの民間非営利組織(NPO法人)の活動がある。また盛平の弟子たちが積極的に海外普及に努めた結果、欧米や東南アジアなど国際的に大きく広まり、フランスなどは合気道人口が日本よりも多い。

技は、体術・武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術である。戦時中は旧陸軍中野学校や旧海軍大学校などでも盛平が指導していた。戦後も、自衛隊徒手格闘や警察の逮捕術の技術に大きな影響を及ぼし、機動隊や警察特殊部隊などでも研修が行われている。

技の特徴は、合気道独自の体捌き・「入身」「転換」によって攻撃線をかわすと同時に相手の死角に入り、体の接触点を通じて相手の重心を崩し、自分有利の体勢からの投げ技や極め技で相手を制する形に見出される。また「呼吸力」「合気」といった合気道独特の力の出し方と感覚を身につけることにより、年齢や性別・体格体力に関係なく「小よく大を制す」ことができるとされている。

稽古は基本的に、相手の手首・肘・肩関節を制する幾つかの形から始まる。そして稽古を重ねる中で多様な応用技・変化技(投げ技・固め技)を学んで行く。 通常の稽古では、打撃は牽制程度に用いることが多く、打撃中心の稽古は行われないが、合気道の体捌きは常に敵の急所にいつでも打撃を加えこれを制する可能性を持つと言われている。(「実戦では当身が七分で技(投げ)三分」という植芝盛平・塩田剛三の言葉も残されている。)

原則的に二人一組の約束組手形式(何の技を使うか合意の元に行う)の形稽古中心であり、柔道のような乱取りは行わない。ただし柔道とも関係の強い日本合気道協会のみ早くから乱取り稽古を取り入れていれている。主流会派である合気会では一部の例外を除き試合を行わないが、近年では日本合気道協会の他にも合気道S.A.、武田流中村派合気道、フルコンタクト合気道 覇天会、日本伝無限流合気道、など試合を行う会派も増えつつある。またほとんどの会派が、段級位制をとっている。

通常の筋力や腕力に頼らず相手を制する武道であるということから、「非力な女性の護身術としても有効」と喧伝されてきたが、実際、筋力・腕力に頼らず相手を制することが可能になるには、他の武道同様容易ではなく長い修練を要すること、また合気道の技法が「片手取り」(攻撃者が相手の手首を掴みに来る)「正面打ち」(攻撃者が手刀を振りかぶって打って来る)など、現代の現実の格闘場面では考え難い攻撃法に対応する形になっている(これは合気道の元になった古流柔術が帯刀を前提とした時代のものであり、「抜刀しようと刀の柄に掛けた手を押さえる→片手取り」「刀で斬り掛かって来るのを素手で捌く→正面打ち」などの場面を想定した稽古法であったことに由来すると言われている)こと、および稽古様式が型稽古のみであることなどから、合気道をそのまま一般的な護身術として考えることには疑問を呈する意見も多い。

他武道に比べ、精神性が重視され、精神的な境地が技に現れるとされている。これは、戦前大本の出口王仁三郎に師事し多大な影響を受けたこと、また青年時代故郷の和歌山で南方熊楠に出会い神社合祀反対運動に取り組んだことや、戦時中茨城県岩間町(現・笠間市)に合氣神社を創建するなど神道への親しみが深く、『古事記』や神道用語を用いて合気道の技や理念を語たり著述するなど、精神世界への志向性が強かった盛平自身の性格の反映といえる。盛平の弟子の中には藤平光一を初めとして、ヨーガを日本に持ち込んだ中村天風の影響を受けた合気道師範も多く、合気道の精神性重視という特徴をより顕著にしている。 武術をベースにしながらも、理念的には力による争いや勝ち負けを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消し、自然宇宙との「和合」、「万有愛護」を実現するような境地に至ることを理想としている。(主流会派である合気会が試合に否定的であるのもこの理念による。)

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テコンドー

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テコンドーの試合テコンドーとは格闘技、スポーツの一種で、韓国の国技でオリンピックの公式種目にもなっている。「跆」{足偏に台}は、踏む・跳ぶ・蹴る等の足技、「拳」は突く、叩く、受ける等の手技、「道」は、礼に始まり礼に終わる精神を表している。
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多彩な足技と、下段への攻撃が厳しく制限されていることから、足でやるボクシングと形容される。

創始者は、崔泓熙(チェ・ホンヒ)。日本の「松涛館空手道」を参考にして作られたとされる格闘技で、1955年4月11日、テコンドーと命名した。1966年にITFが発足。

ラベル:テコンドー
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2007年08月10日

ブラジリアン柔術

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ブラジリアン柔術 (Brazilian Jiu-Jitsu) とは、ブラジルに移民した日本人柔道家・前田光世が自らのプロレスラーなどとの戦いから修得した技術や柔道の技術をカーロス・グレイシー (Carlos Gracie) などに伝え、彼らが改良してできた格闘技、武術。ブラジルではリオデジャネイロを中心に長年にわたって盛んに行われている。
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近年の格闘技ブームと、寝技の組み技主体であるが故の安全性の高さや全くの素人からでも始められる敷居の(良い意味での)低さにもかかわらず強くなれることから、競技人口が急速に増加している。これらのこともあり、知名度は古流柔術をしのいでいる。現在ではブラジリアン柔術を「柔術」と指すケースまである。「BJJ」と省略表記されることもある。

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2007年08月09日

柔術

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柔術(じゅうじゅつ)は、日本古来の徒手武術「古流柔術」である。戦国時代の合戦用に工夫された「甲冑武術(鎧組討ち)」と江戸時代になってから発展した「素肌武術」に大別される。相手を負傷させずに捕らえることを重視する流儀の多さは、他国の武術に類を見ない大きな特徴である。
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広く研究され流派が多数存在したことを証すように、柔・和・和術(やわら)・体術・胎術(たいじゅつ)・拳法・腰廻・小具足術・活殺術・挫術・座術・?術・坐術・体座術・体挫術・体坐術・体?術・白打・組討・組打・組討術・組打術(くみうち)・鎧組討術・鎧組打術・取捨術・捕手・捕縛など、その異称は数多い。

「柔術」は広義では徒手武術全般を指す。この記事では主に狭義の柔術「古流柔術」を「柔術」として説明する。また「柔術」も「古流柔術」も日本古来の柔術全体をしめす正式名称ではない。

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2007年08月08日

空手道

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空手道(からてどう)もしくは空手(からて)とは、琉球王国時代の沖縄で発祥した拳足による打撃技を特徴とする武道、格闘技。
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空手は大正時代にまず沖縄から本土に伝えられ、戦後は世界各地に広まった。現在では世界中で有効な武道、格闘技、スポーツとして親しまれている。現在普及している空手は、試合方式の違いから、寸止めルールを採用する伝統派空手と直接打撃制ルールを採用するフルコンタクト空手に大別することができる。このほかにも防具を着用してして行う防具空手(広義のフルコンタクト空手)などもある。

今日の空手は打撃技を主体とする格闘技であるが、沖縄古来の空手には取手(トゥイティー、とりて)と呼ばれる関節技や投げ技も併伝していた。また、かつては空手以外に棍術(棒術)や節棍術(ヌンチャクなど)といった武器術も併せて修行するのが一般的であった。最近では、失伝した技を他の武術から取り入れて補う形で、総合的な体術への回帰、あるいは新たな総合武道へ発展を目指す流派も存在する。

ラベル:空手道
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2007年08月07日

柔道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

柔道(じゅうどう)は、明治15年に嘉納治五郎が創始した武道であり、格闘技、スポーツ、武術にも分類される。正式名称を日本傳講道館柔道という。
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「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、「柔能く剛を制し、剛能く柔を断つ」を真髄とする。単なる勝利至上主義ではなく、精神鍛錬を目的としている。

学校教育において1898年に旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。

連合国軍最高司令官総司令部により学校で柔道の教授が禁止された以降武道は禁止されたが、昭和25年(1950年)に文部省の新制中学校の選択教材に柔道が選ばれた。

昭和28年(1958年)の中学学習指導要領で、相撲、剣道、柔道などの武道が格技という名称で正課授業が行われた。平成元年(1989年)の新学習指導要領で格技から武道に名称がもどされた。

ほとんどの学校が柔道場を有する。剣道や空手道と並び、日本でもっとも広く行われている武道の一つ。

ラベル:柔道
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2007年08月06日

相撲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

相撲絵(歌川国貞、1860年代)
『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年刊相撲(すもう)は、日本の国技(正式には国技という物は決まっていない)とされ、国際的にも行われている日本由来の武道・格闘技・スポーツ。プロ競技としては、日本国内で大相撲という形で興行が行われている。
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もともとスポーツではなく、力のある男性が神前にてその力を捧げる神事であった。そのため神に対する敬意を示すための礼儀作法が重視されている。

スポーツの体系としては、裸身(に極めて近い状態)で道具を用いず競技者の肉体のみで優劣を競うことからレスリング系統の競技であり、英語では「Sumo-Wrestling(スモウ・レスリング)」と表記される。

日本では組み合う格闘技の競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲などがある。

日本国外で同じような形態の格闘技としては、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、沖縄のシマなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本で紹介される場合には何々相撲、といった名で呼ばれることが多い。:沖縄相撲(琉球角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など。
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2007年08月05日

クラヴ・マガ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

クラヴ・マガ(ヘブライ語:קרב מגע Krav Maga、KravMaga、Kravmaga、クラブ・マガ、クラブマガ、クラヴマガと表記されることもある)は、20世紀前半、イスラエルで考案された護身術及び白兵戦術で、様々なイスラエル保安部隊に採用されることで洗練され、現在、世界中の軍・警察関係者や一般市民にも広まっている。
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一般市民向けのコースでは、軍・警察関係者向けに教えられている殺人術は除外する形で、武道の一環として護身術に重点を置いたレッスンが提供されている。

ラベル:クラヴ・マガ
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2007年08月04日

ポロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポロ競技 ポロ(英:polo)とは、イギリスで考案されたチーム競技の一種のスポーツである。
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1チームは通常4人で、馬に乗りマレットと呼ばれるスティックで球を打ち相手ゴールに運びこむ事で得点となる。競技時間は7分間のチャッカー(chukkas)が6回で、一人の選手は試合中4頭まで馬を替える事ができる。

 また、一頭の馬を連続する二つのチャッカーに続けて出すことは出来ない。

 日本では、広い競技場、競技者が騎乗できる事、一人につき最低2頭の馬という必要な条件を満たすことが困難なためごく一部で行われているに過ぎない。

ラベル:ポロ
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2007年08月03日

馬術

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

馬術(ばじゅつ)は馬に騎乗して運動の正確さ、活発さ、美しさなどを目指すスポーツ、技術体系、また競技種目である。
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スポーツあるいは競技種目としては、ヨーロッパに端を発するブリティッシュ馬術と、スペイン、ポルトガルなどヨーロッパ西部を起源とするウェスタン馬術の二つが主流をなしている。アメリカ西部開拓がウエスタンの語源と誤解される事もあるが、真の語源はスペイン、ポルトガルがヨーロッパ西部(ウエスタン)に位置していた事による。 ちなみにヨーロッパ西部は7世紀以降、両国がサラセン帝国の支配下にあったため、中東の騎乗法の影響を強く受けていて、鞍やブーツに唐草模様があしらわれているのもその現れてあり、数世紀を経た後に大西洋を渡りカウボーイの使う鞍やブーツにも影響を与える事ともなった。

ヨーロッパの馬術は古代ギリシアで発達し、クセノポンの著作は現存する最古の馬術書として知られているが、近代馬術はルネサンス期のイタリアでクセノポンの再評価から始まった。18世紀フランスのド・ラ・ゲリニエールは、この流れを集大成し「近代馬術の父」と呼ばれている。また、19世紀ドイツのシュタインブレヒトは現在のドイツ馬術全盛の基礎を築いた馬術家として知られており、彼らの騎乗法・調教法が今日の馬場馬術の基礎をなしている。 一方、障害飛越競技、総合馬術の分野では、20世紀初頭、イタリア騎兵将校のカプリリーが編み出した、鐙を短くして上半身を前傾させる騎乗法が広く採用されている。

日本の古来からの馬術は日本でもほとんど廃れ、一部の研究家が実践するにとどまっている(時代劇や大河ドラマなどでも乗馬シーンのほとんどは、ブリティッシュかウェスタンの馬術によっている)。

上二者は技術もスタイルも大きく異なっているが、双方に共通する最も大きな特徴は愛馬精神の尊重である。オリンピックでは動物を使用する唯一の種目であるとともに、選手の男女が区別されない唯一の種目でもある。

なお、オリンピックでは、馬場馬術、障害飛越競技、総合馬術の3種目が行われるが、世界選手権大会ではこれらに加え、軽乗競技、長途騎乗(エンデュランス)競技、馬車競技の計6種目が行われる。

かつて、パリオリンピック (1900年)では「乗馬走り高跳び」「乗馬走り幅跳び」の2種目があったが転倒・落馬の危険が高いためこの回のみで廃止された。アントワープオリンピック(1920年)では「乗馬フィギュア(個人・団体)」の種目があったがこの回のみで廃止された。

ラベル:馬術
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2007年08月02日

水上スキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

水上スキー水上スキー(すいじょうスキー)とは、モーターボート等の後部から持ち手(ハンドル)の付いたロープを設置して航行し、それを握った人が水面を滑るウォータースポーツである。
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通常の水上スキーは、両足裏に二枚のスキー板状の物を取り付け、30km/h前後で航行するモーターボートに引っ張ってもらって滑る。

例外的には、水上飛行機などに引っ張ってもらったり、上級者がスキー板なしで水面を裸足(ベアフット)で滑る場合もある。

水上スキーから派生したものとして、スキー板ではなくスノーボード状のもので行うウェイクボードがあり、水上スキーの範疇に含まれる。

類似したものに、ロープを取り付けたゴムボート等に人がしがみ付きモーターボートで曳いて水面を滑るものがあるが、滑る人が持ち手を握ってロープをコントロール(ハンドリング)しないものは通常は水上スキーとは区別される。

ラベル:水上スキー
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2007年08月01日

テクニカルダイビング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

テクニカルダイビング (Technical diving) とは、オーバーヘッド環境(閉鎖環境)と減圧(仮想閉鎖環境)を伴う大深度への潜水のことである。 スポーツダイビング、レジャーダイビングなどと呼ばれる一般人が楽しみで行うスクーバダイビングの一つのカテゴリーであり、レクリエーショナルダイビングと区別される。
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テクニカルダイビングは、1950年代より行われていた直接水面まで浮上することのできない洞窟(海中鍾乳洞、泉なども含む)や沈船などオーバーヘッド環境(詳しくは洞窟潜水の項参照。)の潜水技術や知識を元にして、1980年代にNOAA(米国海洋大気圏局)などで研究されてきた混合ガス潜水技術を用い、仮想天井の減圧停止を伴い、それまでは潜る事の出来なかった大深度潜水(水深40mから100m程度まで)を安全に出来るよう体系化されたレジャーダイビングを指す。1990年代に入り雑誌で紹介されてからテクニカルダイビングと呼ばれる。

テクニカルダイビングは、全てのレジャーダイビングの安全管理の基礎となっており、特にケイブダイバーは各レクリェーショナルダイビング指導団体のトレーニング部に所属もしくは顧問をしている。

通常テクニカルダイビングとカテゴリーされる以外の見解として、
システム潜水に用いられるような高度な器材(オンデマンドヘルメット)などを用いてレクリエーショナルダイビングの潜水領域に潜るレジャーダイビングをもテクニカルダイビングと称する場合もある。しかし、Technical DivingのTechnicalは高度なダイビング器材のみを指す形容詞にされる場合もあるが、これらを使いこなすための技術を一般的にTechnical Divingと称することはない。なので、橋梁や油田など水中工事で行う潜水や、自衛隊や海上保安庁などが行う潜水とは理論などで共通するものがあるが別物である。なお、沈船などの水中構造物の内部や水が満ちた洞窟内部に進入する上級スクーバダイビングをオーバーヘッド環境ダイビングと呼ぶダイバーもいる。

実施に当たっては、スモールステップ・プログラムが確立されておりシニア世代にテクニカルダイバーは多い。日本のダイビング業界は利益追求主義であり、少ない経験値でステップアップしたがる傾向のためか、レクリェーショナルを超えた知力、体力、技能が要求され、これらを身に付けるために莫大な時間が必要と勘違いしてるダイバーが多い。またNAUI(米国水中指導者協会)エンタープライズは、海外本部で40年以上テクニカルダイビング部門NAUI-tecを開催しているにも関わらず、国内NAUIでは取扱う能力のない会社もある。

海外テクニカルダイバーは精神の安定と身体の柔軟をはかるためヨーガを導入する人も多い。

テクニカルダイビングの中でもケイブダイビングは、下記の年表を見れば判る通り、レクリェーショナルダイビングより古くから行われている。いわばレジャーダイビングの原型となった潜水探険を含む。

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