弓道(きゅうどう)は、和弓を用いて矢を射て、的に中(あ)てる一連の所作を通して心身の鍛錬をする日本の武道。流派では小笠原流・日置流・本多流などが有名。諸流派の集大成ともいえる大和流(江戸初期成立)も有名だが、現在では一部地域で伝承されている状態。流派の一部、地方の弓道会を統括している全日本弓道連盟は、段級位制をとっている。
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弓道の流儀としては、儀礼・儀式的な要素が加味されつつ発展した射の系統を、今日的な分類で「礼射系」と称し、小笠原流が該当する。他方、戦場での実利である、対象物に善く中て、強く貫き、精度を維持する(「中・貫・久」註:本来は「貫中久」である)事を重視して発展してきた射の系統を、今日的な分類で「武射系」と称し、日置流が該当する。また、日置流の中でも三十三間堂の通し矢から発展した堂射流派の一部から派生し、馬上の射である騎射の正面打起しを取り入れ、元来斜面打起しであった射型を正面打起しに変更した本多流が武射系として存在する。
明治維新による近代化の余波で、弓道は公的に一時陰を潜めることになるが、一部の弓道家により存続復興の努力がなされ、各地方で在野的に根強く行われていた。他方で、民衆の中には遊興の道具としての弓矢の存在があり、江戸期からの盛り場にあった賭弓場が維新後も各都市部で大流行した。賭弓場の多くは風俗営業であり、明治政府より規制を加えられる程であった。明治初期、弓といえば一般的に賭弓場が連想されるまでに衰退していた。しかしながら、帝国憲法の発布、教育勅語の下賜、国会の開設、初等教育や徴兵制の徹底、その上日清戦争・日露戦争の勝利によって愛国心がさらに高揚し、弓道をはじめとする各武道が国民の中で再認識・尊重されるようになる。このような社会風潮から、明治28年(1895年)に京都在住の有識者により、各種武道を総合した団体として大日本武徳会が設立された。そのなかで弓術をはじめとする各武術を技術を目的とするのでなく、大和心涵養を目的として武術を武道とするとし、大正8年(1920年)武術専門学校を武道専門学校と改称、時を同じく弓術も弓道と改称される。その反面、遊興的に中りさえすれば良いとした衰退期の一部弓界の反動もあり、射型さえ良ければ中らなくても良いとされる風潮や、過度な精神偏重が広まった側面もある。
ラベル:弓道